クロス・アディクション
クロス・アディクション
ある日の夜、トイレに行きたくなって私は目が覚めた。布団から起き上がろうとしたのですが体に力が入らず、足腰に激痛が走ったのでした。その夜母は夜勤で不在、弟妹
はもう家を出ておらず、父だけでした。仕方なく父を大声で呼んだのです。「お父さーん、来てー!」ろれつの回らない口調で父を呼ぶと、ムスッとした表情で「何時と思っ
ているんや! なんや!」と部屋にやってきました。私はトイレに立てないことを伝え連れて行ってもらいましたが、便座に坐ることも下着を下ろすこともできません。仕方
なく父に下着を下ろしてもらい、便座に坐らせてもらって用を足しまた下着を上げてもらいました。
「情けない。俺でも男やぞ。お前の自業自得や!」と情けない言われ方をされました。その夜は、酒と睡眠薬何十錠と覚醒剤が体の中に入っていたのです。朝を待ち近所の
外科へ行きましたが原因不明で、時間の経過と同時に右足が腰の付け根からパンパンに腫れあがり、度重なる激痛で救急車を呼び、大きな外科病院に連ばれました。どんなに
調べても原因不明で、歩行器を使っての行動しかできませんでした。
何か月後かの夜に、海を渡り県外の精神病院へ転院させられました。その頃私は、両親と「断酒会」という自助グループヘ行っていたのです。有無を言わさず県外の病院へ
連れ去られた感じでした。どうしてこんなことになってしまったのか・・・・・・
私は女子高へ進学しましたが、3年生の春に喫煙が原因でボヤを起こし退学になってしまいました。それからは「楽にお金を手にするには水商売がいい」と、その世界に足
を踏み入れてしまったのです。幼少の頃には父の酒の問題で、家の中は暗い空気がいつも漂っていました。毎夜のように両親のけんかを見て育ったのです。「こんな家、いつ
か出て行ってやる! こんなだらしのないアル中のクソ親父のような人間になるか!」と、高校退学と同時に家を出て行きました。
そんな安易な思いと父への反発もあっての水商売勤めでしたが、こんな私にも夢があり、19歳のときに通信制の高校の4年生へ編入したのでした。毎晩7時から勤めに入り
午前2時で終え、それからまた朝の5時か7時まで飲み歩く生活。店でかなり出来上がっているのにそれでは足らない。1人暮らしの部屋に帰る寂しさと人恋しさ。客あしら
いも上手にできるようになると、勤めがひくといろいろな場所へ連れて行ってもらえ、おいしい物を食べたり高価な酒を飲ませてもらったり、洋服やジュエリーの数々。酒が
口に入ると私はとても陽気になり、客や店のママから喜んでもらえる心地よさと、客からチップを弾んでもらったり給料が上がったりして「もっとがんばって飲まなきゃ、売
上をあげなきゃ」と、ざるのように飲める自分に酔っていました。
こんな状態が長く続くことはなく、酒の臭いにえずき負けている自分に気がっきました。「客が入店するする前に何とかしなければ」とアルコールを流し込み、トイレで吐
く。それを2、3回繰り返していたら、すっかり飲める状態に落ち着いているのです。不思議でした。「あー、これが迎え酒か」なんて感心したものでした。でも、確実にア
ルコールが飲みにくくなっていて、吐く苦しさや辛さ、体力の限界を感じているところに客から「何にでも効く栄養剤がある」とすすめられて、魔の覚醒剤と出会いました。
白い粉の麻薬、覚醒剤は私の体にピッタリ合い、悩みは一気に解決し、「スーパーウーマン」になった錯覚に陥りました。気分はいつもばら色で活力がみなぎり、多量飲酒
が叶い、不眠不休でも疲れ知らずで食事もいらない、とんでもなく陽気になる媚薬でした。
こんな生活の中での通信制の高校生活は、4年生を3回もすることになったのです。やっとの思いで卒業証書を手にしましたが、このあたりの私には、週1回のスクーリン
グがままならず、クラスメイトや先生が暖かくサポートしてくれました。その私の卒業式には、元の旧友達が駆けつけて来てくれ、祝賀会を開いていただきました。この時に
飲んだ酒が、あとにも先にも一番おいしく飲んだ酒でした。
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