断酒会は自分の行き方を見つめる場所


「夫婦同志は持ち合い持たれ合い」か

断酒会は自分の行き方を見つめる場所

 私は、玄海灘に面した九州の小さな町で5人姉妹の次女として生まれた。 12年後に弟が誕生し、姉妹の中で唯一の男の子である。その日のことは今でも覚えている。家族の

中で一番の実権をもち始末のいい祖母が、土間に並べてある西瓜を近所中に配って歩いた。私の記憶のある限りわが家で初めての出来事である。
 私は小さい頃から「お前が男の子だったら」と、祖父母や父母に言われながら育った。祖父と母は農業を営み、父は鉄工所に勤めていた。田植えや西瓜の取り入れどきは、

父も含め家族総出で田畑に出かけた。西瓜をリヤカーに乗せ父と一緒に運んだ。幼い頃の私の楽しい思い出だ。
 その父が私が中3の時に独立して鉄工所を始めた。父は毎日家からバスで鉄工所に出かけていた。半年を過ぎた頃、母が停留所まで父を迎えに行った。父はその日帰らなか

った。父はまじめな人で無断外泊などする人ではなかった。父の行方が分からず、祖母は以前からよく出かけていた拝み屋を訪ねた。そこでは父は、女の人のところにいると

いったそうだ。叔父は、それだったらまだよかといった。
 1週間ほどした頃、学校の音楽堂で卒業式の歌の練習をしていたとき、担任の先生が私を呼びにきた。私はとっさに父の事だと感じた。一目散に家まで走った。海は荒れ、

濁流だった。その光景を私は長い間忘れることができなかった。
 座敷に布団が敷かれ、父の遺体が並べられていた。顔がふやけていた。
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夫と母のあいだで悩み


「嫁と姑、犬と猿」か

夫と母のあいだで悩み

 私は、現在、夫と1人娘との3人で、ささやかですが幸せな生活を送っています。しかし、この生活が送れるようになるまでの道のりは長いものでした。だからこそ、現在

の生活が、本当に幸せだと感じることができます。普通の人が、平凡だと思うことが、幸せに感じられる、だからこそ今、アルコール依存症という病気になったことを、後悔

はしていません。
 私は平凡な家庭の1人っ子として育ちました。両親も仲良く、本当に普通に何不自由もなく育てられました。母は仕事も家事も完璧にこなすし、努力家であり、非の打ち所

はありませんでした。ただ、常に私にも向上心を持つことを求めました。勉強にしても、まず誉めてくれることはなかったように思います。常に上を目指すよう、言われっづ

けていました。学生時代の私は、それに答えて勉強もそこそこでき、友達とも仲良く、部活もがんばるという、何の問題もない子供でした。
 そんな私も高校を卒業し、就職ということで、関東の方へ3年間行くことになりました。その頃から自分は1人っ子であるという事を意識しはじめ、親はそのまま地元へは

帰ってこないだろうと思っていたようでしたが、自分の中では「1人っ子だから、いずれは親元にいなければならない。3年で帰ろう」という思いがずっとありました。その

とおり3年で帰り地元で就職しました。
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父はアルコール依存症でした

「蛙の子は蛙」か

父はアルコール依存症でした

 今日はもう飲むことをやめよう。私は飲んだら家族に迷惑をかけるからと、何回思ったことだろう。どうしてやめたくてもやめられないのだろうと思いながら、夜になると

もう落ち着かず、子供達の目を盗みながらキッチンで、音がしないように神経を張りつめながら、1升ビンからコップに注ぐ。一気にグイーと飲む。飲んだあと、また飲んで

しまったと。そのあとは、体が納得するまで飲む。本当に苦しかった。
 子供達は「また飲んでる」としらけた目で私を見ている。それを感じながら、子供達になんだかとりとめのない言い訳をする自分がいた。最初、笑い上戸であった自分が、

いつの間にか酒に飲まれていくのは早かった。あの頃の自分の生き方は、心に余裕などなく、いつも風船球がパンパンになっている感じ。そんな毎日を過ごしていました。
 そんな生きづらい生き方しかできなかった根は、育ちの中にあったように思います。私の父親もアルコール依存症でした。酒乱で酒を飲むと人が変わり、夜が恐かったです

。今夜はまた何がはじまるのか、どこに逃げるのか。酒のない国はないか、父が死んでくれたらと、真剣に悩んでいました。そんな折、父は飲酒運転で事故死してしまいまし

た。私が小学校6年生のときでした。その後、学校から帰ると、普段は気丈な母親が、仏壇の前で木魚を叩きながら泣いていました。「あんたは好きな酒飲んで死んでしまっ

たけど、これから私は2人の子供をどうやって育てて行けばいいのよ!」と。
 私はそれをそっと垣間見ながら、自分が今後しっかりして母親を支えなければと、心に決めていました。その後、私の自分を捨てての親孝行病がはじまりました。自分なり

になりたかった職業も捨て、母に言われるとおりに家業を手伝いました。母が喜んでくれたらホッとするのです。その後結婚しても主人、子供達に気を使うより、母親の顔色

をずっと見てきました。
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「蛙の子は蛙」

「蛙の子は蛙」か

「蛙の子は蛙」

 私には故郷が2つあります。ひとつは生まれ育った北国の小さな田舎町。そしてもうひとつは、私を新生させてくれた旭川市。僅か3年の旭川での生活は、私の人生を180度

変えてくれた大切な故郷になりました。
 高校卒業と同時に札幌へ出てきて、昼はレストラン、夜は専門学校と忙しい日々の中で、酒も多少は口にしていました。仕事を覚えはじめた頃、店のママがランチタイムの

あとにビールを1本持ってきて、スープカップに注いでくれました。汗をかいたあとのカップ1杯のビールの味は、今でも忘れられません。初めてビールがおいしいと思った

瞬間でした。昼間の酒の味を覚えたのです。それから私が仕事をやめるまでの3年間、毎日続きました。
 23歳で最初の結婚をしたのですが、5年目に離婚。酒浸りになるまで時間はかかりませんでした。朝なのか夜なのか、何日たったのかも分からない状態の中で、思うのは別

れた相手への恨み、憎しみばかりです。あれほどお互いを必要として一緒になったのに、こんなに変わってしまった心の変化に自分でも驚きはしましたが、もはや酒で狂った

頭の中には魔物が棲んでいて、コントロールができない状態でした。まわりの人たち全てが幸せそうに見えて、世の中全てが疎ましく思いました。何の希望もなく、生きる気

力もなく、狂った頭で考えた結論は「死」でした。
 何日間かかけて酒を買いに行きながら、薬局を回り薬を買い求めました。以前病院で出してもらった安定剤と眠剤を合わせて、酒と一緒に飲みました。これで楽になれる…

…はずでした。気がつくと病院のベッドの上でした。私の様子がおかしいと気づいた友人が、管理人に頼んで鍵を開けてもらい発見したそうです。
 助けられた私は、それから死ぬのが恐くなり、勇気もないまま生きていかなければなりません。何とか気持を切り替えて働きはじめた理由は、帰ってから飲む酒のためでし

た。そのうち給料だけでは足りなくなり、
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父と2人で通った断酒会

「蛙の子は蛙」か

父と2人で通った断酒会

 現在私は、5歳の娘と実母との3人暮らしを送っている。日々穏やかに暮らせる喜び、普通であることの幸せを噛みしめながら……
 私は子供の頃の出来事を思い出したくない。消せるものなら私の過去から消してしまいたい。そうしたら、アル中にはなっていなかったかも知れない、と思う時がある。小

学校時代の自分の記憶をあまり思い出せない。家族との楽しい旅行や学校行事の思い出も、嬉しかったことも何も思い出せない。ただ思い出すのは、いつも父親が酒を飲み母

親とけんかしては物が飛んでいたこと。一番衝撃だったのは、父親が包丁を持って母親を追いかけている姿を見た時だ。母親は私の手を握り、裏山へと逃げる。「お母さんが

殺される!」そんな気持で、無我夢中で母親と一緒に走っていた。
 どれくらい経ってからか、家へもどるとまた酒を飲んで父親は寝ていた。酔いから覚めるとまたけんかがはじまり、父親は今度は、母親の背中を靴で何回も何回も殴ってい

た。私にできることは「やめて!」と泣いて父親に叫ぶだけ。母親は「ごめんなさい」と謝っている。私は「お母さんは悪くない、悪いのはお父さんだ!」と心の中で叫んで

いた。
 父親は母と私がお風呂に入っていたときも、いきなり石炭の灰をお風呂の中に投げ込んだ。悔しいやら悲しいやらで涙がどんどんあふれてくる。と同時に父親に対して憎し

みが湧いてきた。そんな家庭の中で、もうひとつ私の心に封印したい出来事が起こった。
 それは私が小学3年生頃から6年生まで、近くの中学生に性的悪戯を
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1人ではやめられなかった!

「酒を飲むのに理由はいらない」か

1人ではやめられなかった!

 病院へ向かう足どりは重く地面にへばりつき、頭上からは真夏の太陽がギラギラと照りつけている。これから一体どうなるのだろう。もう駄目だ! 頭の中は混乱していた

。平成7年7月24日、姉につき添われて病院へ向かったあの日の思い、あのときの太陽の痛さはいまも忘れない。
 「アルコール依存症・コントロール障害」思いがけない病名を宣告された。飲み続ければ最後には生命を落とす、進行性の恐ろしい「病気」であると。長い間飲み続けた酒

。少しずつおかしくなっていく自分に気づき、もう酒は飲まないと思いながらどうしてもやめることができなかった。そして全てを失った。アルコール依存症についての知識

を勉強し、断酒の意志を固めるため3か月間の入院生活を送った。夏から秋へ、酒のためにいつの間にか忘れかけていた「季節」を感じながら。

 私たち家族は台湾からの引き揚げ者で私は4人姉妹の3番目、今年62歳です。村を縦断する川そして田んぼと山。自然に囲まれた小さな村でなんとなく貧しさに疑問を感じ

ながら、真っ黒になって野山を駆け回っていたとても元気のいい女の子でした。小学校入学直前に両親が離婚して母は私に白いズックのさげ鞄とクレョンを残して去り、成人

後には母との交流もできましたが、何故かいまだに心から母を許せないのです。
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お酒ってなんて居心地がいいんだろうと

「酒を飲むのに理由はいらない」か

お酒ってなんて居心地がいいんだろうと

 20歳の大学3年の春頃、薄い水割りに「なんてお酒って居心地がいいんだろう」って思いました。寝る前にウイスキーの水割りを2杯ばかり飲んで、日記を付けたりして、

そんなお酒が自分の世界を楽しく広げてくれるのがすごくうれしかったんです。でもそれがすぐに、昨夜のことも覚えていないくらいの深酒になってしまいました。
 外に出て飲むこともせずに、自分の部屋でテレビやラジオを相手にしながら飲むものだから、自分の酔い加減がわからない。ただ量だけは元々飲める口を持っていたらしく

て、どんどん増えました。最初は数杯で気持ちよくなっていたものが、3か月もしないうちに朝、起きてみると洋服を着たままだったり、半分以上減っているボトルを見て愕

然としたりして。「しまった……また、こんなに飲んじゃったんだ」。しかも昨夜の記憶がないのです。
 3年の春にお酒っていいなって思ったものが、夏には「もう今日だけは、今晩だけは飲まないでおこう」って、それも我慢できなくなりました。そして秋、いくらなんでも

自分のお酒の飲み方が異常じゃないかと心配になって、本屋で『家庭の医学』なんかを立ち読みするんです。でも、それを読んでも「私は心理的な依存かもしれないけれど、

まだ身体的な依存にはなっていないから、ここで休肝日をつくって、1週間に1日でも2日でも飲まない日をつくれば飲んでもいいんだ」というように、何か何でも「飲んで

もいい」方向に無理矢理もっていってしまうんですね。
 4年になって短大に進学して上京してきた妹との2人暮しが始まりましたが、「お酒の臭いがする姉ちゃんなんか嫌だ」っていう妹だったので、当然のように妹が学校に行

っている間の昼間のお酒になりました。それからはどうにもならなくなるまで、あっという間だったです。
 結局4年の夏休みに田舎に帰省した時に、私のお酒がとんでもない飲み方になっていることに驚いた両親に、地元の精神神経科に連れて行かれ、その場で入院する羽目にな

りました。

 本当に私は、お酒なんて味わって飲むことをしらないうちに依存症になってしまって、気が付いたら病院。なんでこんなことになってしまったんだろうかって思うんですけ

ど、自分で自分のことがわからないままに病院を出たり入ったり。自分の人生が、どこかおかしいって思うんです。そして、それがお酒が原因だっていうことは分かるんだけ

ど、やめるってことが全然頭にないもんだから、どんどん心が曲がっていきましたし、そのたびに両親を奈落の底に突き落とすようなことばかりを繰り返してきました。
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お酒をこよなく愛す

「酒を飲むのに理由はいらない」か

お酒をこよなく愛す

 長い道程でした……昭和53年8月10日、香川県断酒会に入会してここまで来るのが。私は元、地方公務員でした。過去を掘り起こせばお酒の上での失敗、今思い出しても赤

面する様な事をずいぶんやらかしてきました。回数を忘れる程の入退院を繰り返したり、数えあげれば切がありません。ひどい飲み方をして家族を苦しめ、自分も消え入りた

いという思いをひきずりながら、それでも次の酒を求めることしか出来なかった惨めな毎日を送っている時、断酒会を知り入会しました。当時は「アメシスト」という呼び名

もなく、断酒会の中で紅一点として好奇の目にサラサレ、男性ばかりの中に1人惨めな思いで座っていたことを今でも忘れません。
 70年続いた料理屋で、祖母・母の3姉妹(4人共後家さん)・従姉妹達同居の典型的な女系家族の中に生まれ、学生時代は優等生で、高校の時珠算で全国大会に2回出場し

、母・叔母達の自慢の娘でした。
 高校卒業後、役所に入り、歓迎会の席で50人位の輪の中で杯を持ってぐるりと一回り、そこで一躍酒が強いというレッテルを貼られました。そこからが私と酒の絆が始まり

ます。一族は私を除いたほか誰もお酒が飲めないので、何かにつけ酒の席は私が務め重宝がられていました。
 結婚当初は私がお酒を好きなのを夫は知っていましたので、夫はアルコール類が全然飲めないのに、給料日にはナポレオンとかオールドパー
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醜い母親


「楽は苦の種、苦は楽の種」か

醜い母親

 私は、幸せになりたくて結婚しました。子供を産むんだったら女の子がいいなあ、洋服いっぱい作ってあげて、その子に着せてあげよう。そんな願いで結婚生活を始めたん

です。幸い2人の娘に恵まれました。
 でも私は、夫と、のいざこざからその腹立ちでお酒を飲むようになってしまいました。私は毎日、毎日お酒を飲むようになり、帰ってきた夫と毎晩のように喧嘩です。電話の

線はひきちぎられ、おわんやお皿が飛びかうすさまじい喧嘩でした。夜中目を覚ました娘達が、「やめてよー」って泣き叫んでいます。でもその喧嘩は毎日絶えることかあり

ません。願っていた生活は跡形もなく消えていきます。お酒を飲んでいないと何もする気がしない、何も出来ない、そんな私になっていきました。醜い母親、鬼と呼ばれるよ

うになっていきました。
 家の中では、ウォークマンをエプロンに入れて、家事をしていました。子供が小さいからわからへんやろうと思って、ウイスキーをラッパ飲みしたり、コップにガバガバっ

と入れて、一気飲みをします。2人の娘を放ったらかして、ただひたすら酒を飲んでいました。ポンポンと私をたたく娘の手で気がつくありさまです。返事するのも邪魔くさ

くて。娘の話を聞いてやる事はありません。家の掃除もしません。台所もごみの山、コンロの横でゴキブリが死んでいました。
「晩ご飯、あんたら勝手に食べとき」と言って、私は外を飲み歩く様になっていきました。「お母さん」って呼ぶ娘の声も、聞こえぬふりで「飲みに行くんや」って出て行き

ます。帰ってみると、テーブルの上に、おちゃわんとかつおぶしがこびりついた小皿がありました。幼い娘達の晩ご飯のあとでした。食事の世話すら私はしません。何もかも

、嫌になって、1人家を飛び出しアパートを借りたんです。家賃と酒代を稼ぐために酒を飲みながら仕事をしました。
 飲むことがすべてです。そんなアパートのもとに娘が訪ねてきました。今日は日曜日やから私がいるだろうと思って来たんだと思います。ドアをドンドンたたいて娘が、「

お母さん、お母さん」って、呼んでいます。私は部屋の中でじっと息を殺して居留守を決め込んでいました。「今日は今から飲みにいくんや」私は耳をふさいでただ、じっと

娘が帰るのを待ちました。何度も何度も娘の声がします。
 仕事場にも来ました。交差点を、いくつも、いくつも渡ってたずねて来ました。突然来た娘に私は、ただ冷たく「何しに来たんや、お母さんは、仕事しとんや早よ帰り」娘

達は、帰りません、「早よ帰りって言うてるやろ」私は娘を外に連れ出して、シャッターを閉めました。娘はどんな思いで帰ったのか、今思うと涙がにじみます。

 そんな生活の中で、いつのまにか私は、離婚になり、娘達をおいて今の主人と暮らすようになっていました。でも、子供の事を忘れるなんて出来るわけがありません。町を

歩いていると、同じような年頃の子供の姿が目に入ってきます。声が聞こえてきます。その度に娘の姿が浮かんできてもう後戻りが出来ない今を感じて、酒を飲んで酔うこと

で自分を眠らせて、何とか忘れようとしていました。目が覚めるのがいやで、現実を見るのがいやで、酒を飲んでごまかしていました。ただ、自分をごまかすのに、必死でし

た。今になって思います。娘達は母親がいなくてどうして生きてきたんやろう、おべんとうはどうしたんやろう、お金、おこづかいはどうしてたんやろう、充分にもらえとっ

たんかなあ、お金が必要になった時、父親にどんな言葉で言ってたんやろう。前の夫はすぐに怒る人でしたから、言いにくかったやろな。母親に相談したい事もいっぱいあっ

たやろに……。
 自分自身にも母親にしか相談出来なかった事があったから、それをど
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飲んで娘を虐待した私


「楽は苦の種、苦は楽の種」か

飲んで娘を虐待した私

 私のお酒は酒乱です。一ロ飲むと気を失うまで飲まないと気がすみません。その生活の中で私は、娘を何年も何年も虐待してきました。お酒を飲んで初めて暴れ、目が覚めた時、まだ体の中にお酒が残っていて、目まいと吐気でボーッとしている目に飛び込んできたのは、グチャグチャになっている部屋の様子でした。
 炊飯器が投げ捨てられ、中のご飯が床に飛び散っている。壊れたポットが倒れ、中のお湯が床をビチャビチャにしている。冷蔵庫の中の大切な食料が、ごみ箱に捨てられている。食器棚の中のお茶碗も、お皿も、コップも、みんなみんな叩きつけられて割れている。そして、娘の祥子が大切に使っていたおもちゃが、すべて見るも無残にバラバラになっていて、そばに金づちが落ちている。何がなんだかわからなかった。泥棒が入ってもこんなにグチャグチャにはせんやろ、と思うほど私の家は滅茶苦茶になっていました。
 ベランダヘ続く大きな窓が開けっ放しになっていました。空はもう真っ暗で、星が光っていました。「うちは確か朝からお酒飲んどったはずやのに……」と思い時計を見ると2時半でした。どれくらい時間が経っているんだろう……何が起こったんだろう……
・・・