母からの贈り物


クロス・アディクション

母からの贈り物

 随分長い間、病気だと知らずに摂食障害とアルコールで、自分自身と周囲を傷つけてきました。大学に入学し下宿生活が始まった頃から、やせたい、でも食ベたいの心の葛

藤を満たすために、手当たり次第にむさぼり食ベ、食ベたら太るのが怖くて指を突っ込んで吐き出すことを覚えました。お腹が空っぽになってすっきりしたら、妙に落ち着い

た気持ちになったのです。そんなことが習慣になって1日1回はやらないと落ち着かず、とうとう手に吐きダコができるまでになってしまったのです。
 この過食にアルコールが加わったのは、21歳の頃でした。そして吐く、飲むのサイクルになっていきました。吐いた後にウイスキーを2、3杯がぶ飲みする、ちっともおい

しくないのですが、そうせずにはいられない。やがて飲んだ後には、前後不覚になって眠りこけ、失禁してるのも気がつかないようになっていきました。
 そんな私の姿に母が気づき、何度も叱責されました。「どうして、食ベたものを吐くの?」「どうしてそんなになるまで飲むの?」「あんたは意志が弱い!」「あんたが吐

くからトイレがつまるんや」「あんたの部屋に入ると変な匂いがするわ」言われるたびに傷つき、情けなく思いました。でも、やめる事ができませんでした。
 その後、両親から環境が変われば、私も変わるかもしれないという勧めもあって、私もだんだんうるさくなってくる母の側を離れたくて、適齢期の波に乗って軽。い気持ちで

結婚してしまいました。
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ひきこもり・飲酒・摂食障害


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ひきこもり・飲酒・摂食障害

 私がアルコール依存症と摂食障害になった原因は、幼少の頃から少しずつ築き上げらてしまったようだ。私が生まれ育った時代は高度経済成長期で、日本の経済が急激に発

展していった頃だ。学校教育も詰め込み式で、無理な授業の時間割も多かった。生徒1人1人の個性が尊重されるよりも、他の人と同じことをできることが求められ、画一的

な教育体制がその時代にはあった。
 私は学校生活が小学生の頃から息苦しかった。加えて家庭環境、私自身の性格、全てが重なり合いそれが偶然裏目に出て、私が自分自身を破壊して行く原因になった。中学

3年の時にはうつ状態になり、高校に進学してすぐ、今でいう「ひきこもり」になった。そして、今にも壊れそうな心をつなぎとめるものが、たまたま「お酒」だったのだ。

仮に近くに薬物があったなら使っていたと思うし、犯罪も犯しかねなかっただろう。現実逃避できれば何でもよかったのだと思う。
 私の両親はまじめで、第一に世間体を一番気にする人だ。3人姉妹の末っ子として生まれた私は、過度に期待されながら育った。子供心に両親の愛情が常に欲しくて、意識

してほめられる行動ばかりしていた。常に姉達に負けないようにがんばっていたのかも知れない。他人に姉達と性格や容姿などを比較され嫌だった。そんな心無い人達の言葉

を真に受けて、親ばかりでなく他人に対しても、受け入れてもらうために自分を押し殺してまで他人が期待する言動を察知して、その通りにしていた。
 子供の頃は体格がよく肥っていて、内気で恥ずかしがりやだった。勉強も頑張っていて、素行もよかったので優等生の部類に入っていた。しかし、肥っていることだけで先

生や男子生徒にからかわれ、いじめられてしまった。その年頃の子供というのは、対象の人物が本当に嫌いでいじめることは少ないのだろうが、私にはその時、それが理解で

きるはずもなかった。それに、言葉だけのいじめならがまんできたが、ベランダから石を投げられたり、机や椅子に画鋲の針を上にして一面に貼り付けられたりなど、暴力や

無言の嫌がらせには苦しめられた。
 中学の3年間は特にひどかった。泣きたいのをがまんして、何をされても笑っていた。親友にも家族にも私が悩んでいることは明かさなかった。外では笑って、そんなこと

には動じていないふりをして、強い優等生の仮面をかぶり、しかし、毎日のように家に帰って1人で泣いていた。そんなことはよくあることだと今は思うが、その年頃の私に

とってはとても辛い毎日だった。肥っている自分自身を憎み、心はズタズタに引き裂かれていくようだった。
 今考えると何てバカだったのかと思う。自分が弱い人間だと思われたくなかったからなのか? 何故一言「辛いからやめて!」と言えなかったのか? あんなに傷ついてい

たのにかたくなに心を閉ざして、私は一体何を守ろうとしていたのだろう? 誰も私のことを強くて立派な人間だなんて思ってもいなかったのに、私は勝手に思い込んで、自

分で作り上げた自分のイメージを壊したくなかったのか? なんという思い上がりだったのだろう。

 そんな私だったが、絵を描くことや、ものを作って自分を表現することが大好きだった。しかし、その自由な表現さえ、当時通っていた学校では否定されることがあった。

授業で絵を描いていると先生に「大人のまねするんじゃない」と怒られた。まねなんかしていなかった。頭の中で思い描いたものを素直に表現していただけだった。何故怒ら

れているのか分からなかった。人とは違った色使いや筆使いをすると、やめるように言われた。そして、いつも最後には「子供らしい絵を描きなさい」
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クロス・アディクション


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 ある日の夜、トイレに行きたくなって私は目が覚めた。布団から起き上がろうとしたのですが体に力が入らず、足腰に激痛が走ったのでした。その夜母は夜勤で不在、弟妹

はもう家を出ておらず、父だけでした。仕方なく父を大声で呼んだのです。「お父さーん、来てー!」ろれつの回らない口調で父を呼ぶと、ムスッとした表情で「何時と思っ

ているんや! なんや!」と部屋にやってきました。私はトイレに立てないことを伝え連れて行ってもらいましたが、便座に坐ることも下着を下ろすこともできません。仕方

なく父に下着を下ろしてもらい、便座に坐らせてもらって用を足しまた下着を上げてもらいました。
 「情けない。俺でも男やぞ。お前の自業自得や!」と情けない言われ方をされました。その夜は、酒と睡眠薬何十錠と覚醒剤が体の中に入っていたのです。朝を待ち近所の

外科へ行きましたが原因不明で、時間の経過と同時に右足が腰の付け根からパンパンに腫れあがり、度重なる激痛で救急車を呼び、大きな外科病院に連ばれました。どんなに

調べても原因不明で、歩行器を使っての行動しかできませんでした。
 何か月後かの夜に、海を渡り県外の精神病院へ転院させられました。その頃私は、両親と「断酒会」という自助グループヘ行っていたのです。有無を言わさず県外の病院へ

連れ去られた感じでした。どうしてこんなことになってしまったのか・・・・・・

 私は女子高へ進学しましたが、3年生の春に喫煙が原因でボヤを起こし退学になってしまいました。それからは「楽にお金を手にするには水商売がいい」と、その世界に足

を踏み入れてしまったのです。幼少の頃には父の酒の問題で、家の中は暗い空気がいつも漂っていました。毎夜のように両親のけんかを見て育ったのです。「こんな家、いつ

か出て行ってやる! こんなだらしのないアル中のクソ親父のような人間になるか!」と、高校退学と同時に家を出て行きました。
 そんな安易な思いと父への反発もあっての水商売勤めでしたが、こんな私にも夢があり、19歳のときに通信制の高校の4年生へ編入したのでした。毎晩7時から勤めに入り

午前2時で終え、それからまた朝の5時か7時まで飲み歩く生活。店でかなり出来上がっているのにそれでは足らない。1人暮らしの部屋に帰る寂しさと人恋しさ。客あしら

いも上手にできるようになると、勤めがひくといろいろな場所へ連れて行ってもらえ、おいしい物を食べたり高価な酒を飲ませてもらったり、洋服やジュエリーの数々。酒が

口に入ると私はとても陽気になり、客や店のママから喜んでもらえる心地よさと、客からチップを弾んでもらったり給料が上がったりして「もっとがんばって飲まなきゃ、売

上をあげなきゃ」と、ざるのように飲める自分に酔っていました。
 こんな状態が長く続くことはなく、酒の臭いにえずき負けている自分に気がっきました。「客が入店するする前に何とかしなければ」とアルコールを流し込み、トイレで吐

く。それを2、3回繰り返していたら、すっかり飲める状態に落ち着いているのです。不思議でした。「あー、これが迎え酒か」なんて感心したものでした。でも、確実にア

ルコールが飲みにくくなっていて、吐く苦しさや辛さ、体力の限界を感じているところに客から「何にでも効く栄養剤がある」とすすめられて、魔の覚醒剤と出会いました。

 白い粉の麻薬、覚醒剤は私の体にピッタリ合い、悩みは一気に解決し、「スーパーウーマン」になった錯覚に陥りました。気分はいつもばら色で活力がみなぎり、多量飲酒

が叶い、不眠不休でも疲れ知らずで食事もいらない、とんでもなく陽気になる媚薬でした。
 こんな生活の中での通信制の高校生活は、4年生を3回もすることになったのです。やっとの思いで卒業証書を手にしましたが、このあたりの私には、週1回のスクーリン

グがままならず、クラスメイトや先生が暖かくサポートしてくれました。その私の卒業式には、元の旧友達が駆けつけて来てくれ、祝賀会を開いていただきました。この時に

飲んだ酒が、あとにも先にも一番おいしく飲んだ酒でした。
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